海上自衛隊遠洋練習航海参加者に対する講演(於ムンバイ港、「かしま」)
「インド洋の歴史」
2005.8.22
在インド大使 榎 泰邦
はじめに
世界の海洋のなかでインド洋ほど長い海上貿易の歴史を有し、また最も豊かな貿易物資が海上運輸された海洋はない。大西洋、太平洋貿易が始まるのは精々コロンブス後の16世紀以降のことだが、この海域では今から5,000年前には既にアラビア海貿易が行われ、4,000年まえには貿易風を使った遠洋航海術が発見されていた。
1498年、ヴァスコ・ダ・ガマがインド・カリカットに到着し、「インド航路発見」などと言っているが、まことにおこがましい限りで、ヨーロッパ人の存在と全く関係ないまま、10世紀には既にコモロから広州に至るインド洋海上貿易圏が確立していた。海上輸送される物資はいずれもその時代、時代の最も高価な物資であった。金、銀、象牙、龍線香などの香料、胡椒などのスパイス、綿・絹織物、陶磁器、茶等々、あとで阿片も加わる。そして現在は世界経済を支える原油輸送の大動脈となっている。
日本の経済的繁栄を支える湾岸からの原油輸送をインド洋シーレーンに依存していながら、日本では驚くほどこの海域に対する関心が低い。精々関心が及ぶのはマラッカ海峡までで、インド洋は平時にはインド海軍が守り、いざとなれば第7艦隊が出動してくれる海域程度にしか認識してない。しかし、戦後長い間、専ら日本に原油を輸送するためのルートであったインド洋は、現在は米国に次いで世界第2位の石油消費国たる中国に原油を運ぶ海域にもなってきている。インドも現在世界第7位の石油消費国だが、2020年にはロシア、韓国を追い抜いて第5位の消費国になろうとしている。今後、オイル・シーレーン確保を巡りこの海域でのパワー・ゲームが激化することは必定である。
本日は、固有名詞や年号の引用が続き聞きづらいかと思うが、メモを取っていただく必要はない。将来の海上自衛隊を担う皆様方に少しでもインド洋に関心を持っていただければ、私の話の目的は十分達せられる。
「インドの地図」をどう読むか
インド洋の話に入る前に、少し時間を頂いて「インドの地図」をどう読むかというテーマで話をしたい。インド亜大陸の形成は1億3千万年前に遡る。このころゴンドワナ大陸からインドが分離し、その後、北に大陸移動を続け7千万年前にユーラシア大陸に衝突する。その時、隆起して出来たのがヒマラヤ山脈で、移動してきたゴンドワナ陸塊のほうは現在のデカン高原となる。現在の北インドは当時、海底にあったとされているが、ここにヒマラヤからの河川とデカン高原から流れ込む土砂が堆積して広大な平原ができる。これが、東西2,400キロ、南北240キロに延びる広大なヒンドスタン平原である。
インド亜大陸の形成について述べたのは、実はこの地勢形成がインドの歴史を大きく条件づけているからである。現在のインドだけで日本の国土の9倍という広大さだが、この広大なインド亜大陸は巨大な巾着構造になっている。即ち、北は8千メートル級のヒマラヤ山脈、北東部は2千メートル級のアラカン山脈が南北に380キロ走り、交通を遮断しており、古来、文明間の往来はない。また、中部、南部インドは海洋で囲まれている。こと陸上移動に関する限り、唯一の外部世界への開口部はパンジャブ地方に代表される北西部だけである。この北西部は、現在のパキスタン、アフガニスタンにつながり、更に西にイラン、北に中央アジアに伸びる。
この巾着の口を通ずる往来がインドの歴史を形成してきたと言っても過言ではない。インド人は大別してドラヴィダ系とアーリア系に分かれるが、現在南部インドを中心とするドラヴィダ系は、もともとは地中海地方(クレタ島など)から紀元前3,500年程にインダス河流域に移動してきたと言われている。そして、紀元前2,400年から1,500年に栄えたインダス文明を築いた。アーリア系は南ウラル地方から中央アジア、イラン、アフガニスタンを経て紀元前15世紀ころインダス河上流地方に侵入し、北インドへと移動する。この過程で、ドラヴィダ系はアーリア系に追われて次第にインド亜大陸を南下する。その一方で土地を奪われた原住民が西に流れて流浪の民となったのがジプシーと言われている。いずれにしても、ドラヴィダ系であれアーリア系であれ、北西部の巾着の口を通ってインド亜大陸に到達している。
インドの地図を平面的に見ると西のパンジャブから東のベンガルへの動きよりも、中部インドに至る方が距離的にも容易のように見える。しかし、立体的にみれば、東西の往来はヒンドスタン平原を行くだけで簡単であり、特に騎馬民族にとっては一瀉千里である。これに対し南北の移動は、ヒンドスタン平原からデカン高原へと高度を上げる必要があり、また密林を通り抜ける必要があったので、交通は困難であった。従って、インドの各王朝勢力図を見ると、アフガンからベンガルに至るまでの東西の征服は進んでも、南北の動線での征服は極めて限られていたことがよく判る。ユーラシア大陸、ゴンドワナ陸塊、その間の堆積地帯というインド亜大陸形成の経緯がインド史に影響を与えているのである。
広大なインド亜大陸を統一したのは歴史上、マウリア朝、ムガール帝国、大英帝国の3つの帝国だけである。4世紀に栄えたグプタ朝も版図は広げたが、統一にまでは至っていない。3帝国のうち、紀元前3世紀のマウリア朝アショカ大王は仏教を国の基にしてインドを統一したが、その仏教は北西の巾着開口部からパミール高原、アフガニスタン、中央アジア、中国へと流布した。4世紀の法顕三蔵、7世紀の玄奘三蔵のインド渡来もこのルートであった。16世紀にインドを統一したムガール王朝は、まさにアフガニスタンから北西部巾着口を通って北インドに侵入した。これに対し、インドにとっての海洋は交易を通じ富をもたらすルートではあっても、外部侵略者のルートではなかった。実際、南インド沿岸部の緒王国支配者は海外からの船乗り、商人の拠点作りには極めて寛大で、積極的に居住区を提供していた。唯一の例外は大英帝国のインド植民地支配で、これだけは海からの侵入であった。現代のインド海軍指導者が著した書を読むと、「陸軍中心のムガール帝国が海の重要性を忘れたために、欧州植民地勢力の海からの侵入を許した。インド海軍は二度とこの轍を踏んではならない。」との文で書き起こしている。
以上を頭に入れたうえで、インド洋の歴史をお聞き頂きたい。
紀元前30世紀から始まるインド洋貿易
オマーンからグジャラート・カンベイ湾までは僅か1,000キロ。本年9月にインド・オマーン国交50周年を記念して一本マストの古代帆船を使ってオマーンのスールからグジャラートまで航海する企画が進んでいるが、航海に予定している日数は僅か15日間である。紀元前30世紀には既に北インドと湾岸との間で活発な海上交易が行われていた。紀元前25世紀になってインダス文明が栄えると、これがインダスとメソポタミアという2大古代文明間の海上交易と発展し、インダス渓谷で作られた綿織物がメソポタミアに輸出されていた。紀元前23世紀ころのメソポタミア遺跡から発見されたインダス文字の印章も当時の交易を物語っている。また、紀元前30世紀ころのエジプト古代王朝も紅海貿易を展開していたが、孔雀を輸入したとの記録があり、インドとの交易を示唆している。
紀元前10世紀頃には、夏には東アフリカからインドへ向け、冬はその逆方向に吹くインド洋貿易風を使った航海術が確立しており、紅海と北インドとの間ではダウ船が往来していた。紀元前7世紀には鉄製釘を使って竜骨材と側板を張り合わせたダウ船がこの海域の代表的な航海船となる。1世紀にエジプト人商人が記述した「エリュトラ海案内記」(The
Periplus of the Erythraean Sea)は、アラビア海貿易の模様を生き生きと描写しており、ソマリア海岸のスパイス、奴隷、亀甲、象牙、及びエジプトの衣料、食糧、インドの鉄製品、綿織物、ごま油など各地の名産が活発に交易されている模様を紹介している。
インド洋仏教文化圏の繁栄(紀元前3世紀~AD7世紀)
紀元前3世紀にはマウリヤ朝第3代アショカ王がインド統一を果たし、仏教を広める。仏教は陸上ルートで中央アジア、中国に伝わるとともに、海上ルートから次第にスリランカ、東南アジアに伝播する。仏教と並びヒンドゥー教も広がるが、ヒンドゥー教はバリ島など一部の例外を除き東南アジア大衆層には浸透を見なかった。仏教文化の伝播とともにインドやスリランカへの仏教徒巡礼が盛んになるが、貿易も活発化し、紀元前1世紀にはインド商人がビルマ、メコンデルタにまで浸透し、紀元前後には東南アジアがインド洋貿易ネットワークに組み込まれる。また、紀元1世紀以降、インド東海岸を中心としてインド人の東南アジア殖民が活発化する。インド洋仏教文化・貿易圏の誕生である。そして、7世紀以降インド洋が「イスラムの海」になるまで、仏教文化圏がベンガル湾を中心とするこの海域の中心となる。400年ころパミール高原越えでインド留学を果たした法顕三蔵も、帰路はベンガル、スリランカ、マラッカ海峡ルートで海路、中国に戻っている。貿易対象品目を見れば、当時、東南アジアからはインドに、金、スパイス、中国製シルク、すず等が輸出され、インドからは綿織物、デカン高原の鉱物資源、米などの農作物が、またスリランカからは真珠、象牙、シナモン、貴石類が輸出されていた。
他方、アラビア海貿易も引き続き活発に行われ、サンチー仏教遺跡でも知られるアンドラ王国(BC1世紀~AD3世紀)は、ネロ皇帝時代のローマとの交易を盛んにし、インドから宝石、綿織物、香料を輸入するためにローマから大量のローマ・コインがアンドラ王国に流入していた。
インド洋の「イスラムの海」化(7世紀~15世紀)
7世紀にウマイヤ朝のもとにイスラム帝国が統一され、それまでビザンティン帝国とササン朝ペルシャに分割されていた西アジアが統一された。一方で中国には唐(7世紀~10世紀)が栄え、「絹の道」交易が隆盛を誇る一方、「海の絹の道」も栄える。7世紀に誕生したイスラム教は急速に東アフリカ始めインド洋世界にも広がり、8世紀には既にインダス流域がイスラム勢力の下に入り、13世紀には北インドにイスラムのゴール朝が出来る。13世紀までには東南アジアにも次第に勢力を延ばし、15世紀にはマラッカ国王がイスラムに改宗する。かくしてポルトガルなどヨーロッパ諸国が進出する16世紀までのインド洋は「イスラムの海」と化す。
アラビアンナイトの「船乗りシンドバッド」は、10世紀ころのアラビア人船乗りの世界を描いていると言われるが、この頃には東アフリカのコモロから広州に至る海上貿易ネットワークが完成される。この海上ネットワークの特徴は、第一にイスラム勢力が貿易ネットワークの運営を握っていたこと、第2にインドが中継貿易ネットワークの中心に位置していたこと、の2点にある。
この2番目の点についてもう少し詳しく述べてみよう。インド洋貿易の中心海域はインドを挟むアラビア海とベンガル湾の2つであり、これに東アフリカ沿岸海域と南シナ海が加わる。ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見した際、マリンディ王国(現在のケニア)から南インドのカリカットまで23日で到達しているが、インド洋海上輸送ネットワークを構成する各海域は1ヶ月未満で航海できる。インド洋と言っても物理的には南半球まで南北に長いが、東アフリカ沿岸の一部を除き、南半球は航路となっていないので、南北に意味を持つのはスリランカ南部海域までである。即ち、海洋図で言えば、インド洋海上交通路は中央部分で上からインド・スリランカという大きな楔が打ち込まれている形になる。コモロから広州までと言っても、現実問題としてインド・スリランカを中継しなければ交通は成り立たない。マラバル海岸(インド西海岸)、コロマンデル海岸(インド東海岸)及びスリランカに多くの中継貿易基地が栄えた所以である。イスラムの東南アジアへの伝播と言っても、中東イスラム世界から一度インドに入り、インド化されたイスラムが更に東南アジアに伝わったと言うべきであろう。「イスラムの海」は同時に、「インドの海」でもあった。そして、16世紀には、明、オスマントルコと並びユーラシア大陸を三分するムガール帝国がインド亜大陸を統一する。
このインド洋海上貿易圏の確立を象徴するのが、東アフリカへのマレイ人の移住である。
紀元前には既にマレイ系の移住が始まっていたとされるが、10世紀ころにはマダガスカルを中心として東アフリカでも、マレイ系がインド洋貿易に従事し、活躍していた。これらマレイ系が現在のマダガスカル住民の祖先となっている。また、12世紀ころには、現在のモザンビークなど東アフリカ海岸から銑鉄が鋼の原料としてインドに輸出されていた。多くのインド商人がソファーラ(モザンビーク)周辺に出没し、鉄を高額で買い付け回っていた模様がアラブ人イブン・アル・ワルディの旅行記に記されている。
中国の登場(7世紀~)
東アフリカ沿岸では唐銭など7世紀以降の中国貨幣が多数見つかっており、7世紀にはアフリカ産の龍線香が中国で珍重されていたと言うから、7世紀以降、中国がインド洋貿易ネットワークの重要な一員であったことは間違いない。714年には、広州に海外貿易庁とも言うべき市船司が開設されている。唐の記録によれば、724年、スマトラのスリヴィジャヤ王国の大使が唐を訪問し、黒人奴隷を献上している。当初、南シナ海での交易が中心であったが、12世紀にはインドのカリッカットにまで行動半径を延ばしていた。
ただし、中国の海上貿易政策は一貫性を欠き、例えば明時代でいえば、洪武帝以来、海外貿易禁止策が維持され、永楽帝時代に至ってようやく積極策が取られるという変遷を経ている。この背景には、中国人が南方の疫病に弱かったこともあろうが、基本的には、財政を豊富な国内徴税に依拠し、海外貿易に頼る必要がなく、海外からの物資への需要は奢侈品、珍宝の類に偏っていたことが挙げられる。中国が陶磁器、絹、そして時代が下って茶の輸出を通じ、インド洋貿易に多大な貢献をしつつも、海上運輸の主要な担い手にはならなかった所以である。
中国のインド洋との関わりの中で特筆すべきは、15世紀の鄭和艦隊のインド洋遠征である。明・永楽帝時代、鄭和は1404年から1433年まで7回に亘りインド洋遠征をしている。第1回航海には62隻、2万8千人が参加している。この時は、ジャワ、マラッカ、スリランカを経てカリカットを訪問している。1415年には艦隊の分遣隊がマリンディ王国(ケニヤ)を訪問し、同国の使節団を連れ帰り、キリンを永楽帝に献上したとの記録がある。最後の遠征(1431~1433)では、鄭和自身、ホルムズまで到達し、分遣隊はジェッダまで訪問している。鄭和は雲南省出身のイスラム教徒であった。
話は脱線するが、皆様方は現存する世界最古のアフリカ地図がどこにあるかご存じであろうか。答えを先に言えば、京都の龍谷大学が保有している。この地図は、朝鮮使・金士衡が1402年、中国人李カイに命じ作成させたものである。当時、鄭和艦隊遠征の準備の一環で作製されたものではないかと言われている。南アフリカ在勤時代、同国下院議長がアフリカ地図の蒐集家で、龍谷大学の協力を得てこの現存する最古のアフリカ地図のコピーを贈呈した経緯があり、目にする機会があったが、中国大陸の西端に小さな三角形が「でべそ」のように描かれており、それがアフリカ大陸であった
ヨーロッパ人のインド洋貿易参加(16世紀~)
1498年、ヴァスコダ・ダ・ガマがインド洋航路を発見する。長い間、ヨーロッパ人は「ボジャドール岬(西サハラ/モロッコ)の先は暗黒の海」との迷信の呪縛にあった。1434年、ポルトガル・エンリケ航海王に派遣されたジル・エアネスが抵抗する船乗りを叱咤激励し、初めてこの海域を越えた。呪縛から解き放たれたヨーロッパは以後、次第に西アフリカ沿岸沿いに大西洋を南下し、50年後の1488年にはバーソロミュー・ディアスがアフリカ最南端クルス岬に到達する。それにつけても、「インド航路発見」という表現であるが、インド洋貿易の長い歴史から見れば、何ともおこがましい。欧州では地中海貿易及び沿岸貿易は盛んであったが、海洋貿易となるとコロンブスとヴァスコ・ダ・ガマ後の16世紀以降の話でしかない。それ以前には、紀元前から隆盛を誇るインド洋貿易に類する海上交通ダイナミズムは一切見られない。
それでは、マダガスカル、コモロまでネットワークに入れていたインド洋貿易ネットワークがなぜ、喜望峰を越えて大西洋にまで達しなかったのであろうか。一つには、インド洋貿易を支えていたイスラム世界が、中東を通ずる地中海との交易をも支配下に置いていたことから敢えてアフリカ南端経由の海上交通路開拓に関心を占めさなかったことが挙げられよう。現にポルトガルのインド航路発見への大きな動機となったのは、オスマン・トルコによるインド洋・地中海ルート東西貿易の独占に対する挑戦であった。第2に、湾岸、紅海を通ずる地中海世界との交易は常にインド洋世界の側の出超であり、胡椒、綿・絹織物、陶磁器、茶に匹敵する欧州側の魅力ある産品はなく、このため欧州側から大量の金、銀がインド洋側に流入していた。かかる状況下で欧州がインド洋貿易圏に参入するインセンティヴはあっても、その逆は成立しなかったのではないか。
ポルトガルは、1510年にゴアを、また翌1511年にマラッカを占領し、16世紀央までにリスボン、ソファーラ、ゴア、マラッカ、マカオを結ぶ貿易ルートを確立する。欧州からの金、東アフリカの象牙、インドの綿織物、シナモン、東南アジアの胡椒、サンダルウッド、中国の絹織物、陶磁器と当時の世界で最も高価な物資がこの貿易ルートを行き来した。しかし、ポルトガルの進出は、同国の国力の限界もあり、主要港を抑えただけで、植民地体制を築くに至らず、これまでのインド洋貿易ネットワークを前提に新規参入しただけであった。
スペインもポルトガルと前後してインド洋貿易参入を果たすが、17世紀の覇者は1602年に東インド会社を設立したオランダであった。オランダはジャワを本拠地にモルッカ諸島の香料貿易を支配下に置き、インドで買い付けた綿織物をジャワに持ち込んで胡椒を買い付け、欧州に輸出する形で貿易を伸ばした。ところがオランダの覇権も17世紀末までで、18世紀以降は英国が覇権を握る
17世紀に入り、ポルトガルがオランダ、英国との覇権争いに敗れる間隙をぬって、オマーンがポルトガルから西インド洋貿易の主導権を奪回する。1650年にはポルトガルからマスカットを奪取し、1698年にはモンバサのポルトガル城塞を攻略する。しかし、さしものオマーンも、18世紀に入ると欧州列強の確執のなかで翻弄され、18世紀末以降は徐々にこの海域での支配権を喪失していく。
ジャワ本拠のオランダからインド本拠の英国への覇権シフトは、ヨーロッパ市場ニーズの胡椒から綿織物へのシフトでもあった。即ち、かっては金1グラムと胡椒1グラムが等価という高値で取引されていた胡椒は17世紀後半からヨーロッパ市場での需要が低下する。東オランダ会社による供給過剰が価格低下を招いたこともあるが、基本的には農業技術、牧畜技術の進歩で食生活が豊になり、保存肉中心の食生活が変わり胡椒に対する需要が減ったことにある。これに対し、欧州の生活水準の向上により高級なインド産綿織物、キャラコは大流行し、皮革と毛織物中心の欧州の衣服生活は革命的に変わったと言われている。この綿織物を専ら供給していたのがベンガルを中心とするインドであった。1600年に設立された英国・東インド会社は、ジャワにおけるオランダの牙城を犯すことが出来ず、インドを本拠地としていたが、インド産綿織物への需要が急速に拡大するとかえって地の利を得ることとなる。当時、繊細なキャラコ生産技術とインド更紗の多彩な模様染め技術は、インドの独壇場であり、18世紀後半に英国が綿織物の工業生産を開始するまで実に1世紀を要している。インド更紗は貿易ルートに乗って日本にも伝わり、祇園祭では17世紀に奉納されたインド更紗が現在も使用されている。インド産綿織物と並び需要が高かったのは、中国産の絹織物と茶であった。英国が、中国からの茶の輸入を賄うために
インド産の阿片を輸出し、これがアヘン戦争の原因になったことはご承知の通りである。
インド洋の「大英帝国の湖」化(18世紀~)
英国植民地支配の歴史は本日のテーマではないが、1600年に設立された英国・東インド会社は、ボンベイ、マドラス、カルカッタと拠点を広げ、1757年のプラッシーの戦い
でフランス・ベンガル太守連合軍を敗ったあと各地に勢力を延ばし、1857年、セポイの反乱でムガール帝国を滅ぼすまで1世紀をかけてインドの植民地化を完成させる。大英帝国は1880年代までには、ケープタウンからインド、マレイ半島、豪州までの植民地網を完成し、紅海、湾岸、マラッカ海峡、南シナ海の海上ルートを支配し、文字通りインド洋を「大英帝国の湖」とする。なお、1869年にはスエズ運河が開通している。
東西世界の力関係の逆転は、軍事力の差でもあったが、同時に工業力の差でもあった。この意味で、18世紀後半の英国に於ける産業革命及びその大陸欧州への伝播が決定的な分水嶺となる。1785年、ジェームズ=ワットが発明した蒸気機関を使った紡績が始まり、工業生産への活用が本格化する。また、1709年開発されたコークス製鉄法と1775年からの蒸気機関の溶鉱炉送風への採用が、溶鉱炉の大規模化を可能にし、鉄の生産を飛躍的に向上させた。
産業革命によって、世界の経済力分布に大変革が起こる。「大国の興亡」(ポール・ケネディー著)からの孫引きで恐縮であるが、産業革命直前の1750年時点における世界の生産力シェア試算によれば、中国とインドのみで世界の生産高の60%弱をしめていた。インドだけでもシェア25%と全ヨーロッパの23%を凌駕していた。ところが、欧州で産業革命が定着した1860年には、中国とインドの合計シェアが30%弱へと急落し、その一方で全欧州のシェアは50%超に達する。英国のみで20%とインド(9%)の2倍以上に拡大する。これが、1900年になると、中国・インドのシェアは僅か8%に低下し、全欧州は60%超になるが、さらに新たな大国である米国が24%を占めるようになる。
この東西世界の経済力の逆転は、当然のことながらインド洋貿易のパターンを革命的に変換せしめる。アンドラ王国が古代ローマ帝国と交易をし、インド側の大幅出超の下でローマ・コインが大量に流入したことは既に述べたが、爾来、歴史的に東西貿易は常にインド洋がわの出超で、収支を穴埋めするために西側世界からは金、銀がインド洋側に流れるパターンが恒常化していた。しかし、一度産業革命が起こるとこの流れは完全に逆転し、欧州の安い工業製品がインド洋世界に奔流の如く流入する。かって世界で他の追随を許さなかったインド更紗に代わり、アメリカ植民地から輸入する綿花を原料に英国で大量に機械化生産された綿織物がインド市場を席巻する。
インド洋オイル・シー・レーン
1947年のインド、パキスタンの独立、翌1948年のビルマ、セイロンの独立により大英帝国のインド洋支配も文字通り終焉を迎える。19世紀末以来の近代史・現代史の世界については今更申し上げるまでもなかろう。
かって、胡椒、綿織物、絹織物、陶磁器等々、その時代で最も価値のある物資が往来したインド洋は今や世界経済を支える石油輸送の大動脈となっている。「World
Bulk Trades 2003」に基づき2001年における原油の海上輸送量を見ると、全世界での輸送量1,589.2百万トンのうち、中東発アジア着の輸送量だけで466百万トンに達する。この他、西アフリカ及び北アフリカ発アジア着分も殆どはインド洋を通るので、530百万トン以上、ざっと世界の石油海上輸送の3分の1はインド洋を通っている。その他の物資の運搬を含めインド洋を往来する船舶数は毎日300隻に上り、マラッカ海峡を通過する船舶だけでも毎日平均200隻、年間7万3千隻、さらにスンダ、ロンボクの2海峡をも含めれば年間8万隻の船舶がインド洋と南シナ海の間を往来している。
特に、日本については2001年の原油輸入の90%以上(中東発84.6%、西アフリカ発5.7%)がインド洋経由である。これだけインド洋海上輸送にエネルギー安全保障を委ねていながら、国内のオイル・シー・レーン防衛上の関心は南シナ海、精々マラッカ海峡までで、インド洋は基本的にインド海軍がコントロールし、いざとなれば米第7艦隊が出動してくれる安全な海洋くらいにしか考えていない。
実際、インド洋域内でインドは圧倒的な海軍力を有している。兵員数では5.5万人と第2位のインドネシアの4.5万人、第3位のパキスタンの2.4万人を大幅に引き離しており、主要水上艦数では25隻と、第2位のインドネシア11隻、第3位の豪州10隻に差をつけている。潜水艦数でも16隻とパキスタンの11隻、豪州の6隻を凌駕し、海軍作戦機となると183機を保有し、第2位インドネシアの85機と第3位豪州の35機の合計数を上回っている。もっと端的には、インド洋沿岸国の中で唯一、空母を有し、原子力潜水艦建造に関心を有している国と言えばよかろうか。
わが国はテロ対策特別措置法の下で、インド洋上で米英海軍艦艇に対する燃料補給をするため2001年11月から自衛艦の派遣を開始し、現在も継続中であるが、2001年11月から2004年11月までの3年間だけでも延べ39隻を派遣した。当然これら自衛艦に対する補給、整備、安全確保の問題が生ずるが、牧本艦隊司令がインド訪問の際、「一度、マラッカ海峡を越えると、信頼できる海軍を有するのはインドのみであり、いかにインドとの協力が重要か痛感している。」と発言していたことが強く記憶に残っている。同様な発言は、1999年、わが国にアルミ・インゴットを運搬する貨物船がマラッカ海峡で海賊に乗っ取られた後、インド沿岸警備隊によって拿捕されたアルンドラ・レインボー号事件以来、毎年、インド沿岸警備隊と共同訓練を実施している海上保安庁関係者からも耳にする。
インド洋が専ら中東から日本への石油運搬ルートに過ぎなかった時には、まだマラッカ海峡までが関心対象でよかったかもしれないが、この海洋は急速に日本向けというよりも中国を始めとする他の東アジア諸国への石油輸送ルートとなってきている。2001年統計では、中東発アジア向け石油輸送466百万B/Dのうち、日本向けが172百万B/Dと37%を占めているが、その後中国の石油輸入量が急速に拡大している。2003年には、中国は日本を追い抜いて米国に次いで世界第2位の石油消費国に浮上した。しかも、IEA予想によれば2000年に4.9百万B/Dと世界の消費量の6.5%を占めるだけであった中国は、2030年には12百万B/Dと対世界シェア10%に達する見込みである。インドの石油消費量も2030年までに年率3.3%と世界平均1.6%の2倍という世界で最も高い成長率で増加していくことが見込まれている。かくして世界の石油消費量が2000年75百万B/Dから2030年120百万B/Dへと推移する中で、その拡大分の50%は中国とインドを中心とする非OECDアジアが占めると予測されている。
この様な状況下で、中国の対南アジア外交の活発化とインド洋でのプレゼンス拡大の傾向が顕著になってきている。対南アジア外交の活発化は、今や対ASEAN関係強化、上海機構を通ずる中央アジアとの関係強化と並び、中国による周辺国重視外交「3本の柱」の一つに位置づけられている。具体的には、本年4月の温家宝首相の南アジア4ヶ国訪問に象徴される積極的な首脳訪問外交の展開、過去倍々ゲームで進んできている中印貿易に象徴される対南アジア経済関係強化、パキスタンやバングラデッシュへの武器輸出に代表される軍事関係の推進等々各分野で活発な外交を展開している。インド洋でのプレゼンス拡大についても、パキスタンのグワダル港、スリランカのハンバントタ港、BDのチッタゴン港の港湾開発協力、ミャンマー・ココ島からの調査活動、海洋調査船のインド洋派遣など、活動が活発化している。ある意味で、どの国であれエネルギー安全保障上、自国への石油供給ルートの安全確保に努めるのは当然であろう。かかる中国の動きをも睨みつつ米国もインド重視の姿勢を明確化させ対南アジア外交政策の転換を図っている。静かな海であったインド洋においても今後、大国間のパワー・ゲームがますます活発化してこよう。
以上、長時間の話となったが、人類の歴史に果たしてきたインド洋の役割につきご認識のうえ、今後のわが国安全保障政策におけるインド洋の死活的重要性について関心をもって頂ければ幸甚である。
(了)
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