What's New Lectures by the Ambassador

デリー・ロータリー・クラブ講演
「日印を結ぶ文化・地下水脈」

2006年2月9日
在印大使 榎 泰邦

はじめに
       同じ日印関係でも日頃、政治、経済関係のテーマが多いのですが、本日は日本がいかに歴史的にインド文化の影響を受け、両国が文化という地下水脈で密接に結ばれているかにつきお話したいと思います。
        私は東京の武蔵野市吉祥寺という所から来ましたが、この吉祥寺が吉祥天に由来することは簡単に想像できても、実はその吉祥天がヴィシュヌ神の妃で富と幸運の神、ラクシュミーであることを知る人は多くないと思います。いわば、私は日本の「ラクシュミー・タウン」から来たわけです。20世紀初めのタゴールと岡倉天心との交流、スバーシュ・チャンドラ・ボースと日本との関わり、極東軍事裁判で日本の戦争責任追及に反対したパル判事等々、近代に入ってからの日印交流は皆様よくご存じのことと存じますが、8世紀に遡る日印文化交流史を詳しく知るインド人の数は極めて限られています。時間の制約もありますので、いくつかのトピックに限ってご紹介したいと考えます。

バラモン僧正・菩提僊那と東大寺大仏開眼供養
          インド人が最初に日本を訪れたのは何時であるかについては、様々な伝承があります。 BC3世紀からAD7世紀までのベンガル湾はインドの内海で、タイやインドネシアなど東南アジアに沢山のインド人が移民するとともに仏教、ヒンドゥー教が伝播されました。この海洋ルートを辿って黒潮にのってインド人が日本にたどり着いていたとしても不思議ではありません。646年(孝徳天皇、大化元年)に日本に到着し、播州に祇園社を創ったと伝えられる法道上人もその一人です。
         但し、歴史的事実として裏付けられているインド人来日となると、東大寺大仏開眼供養の導師を司ったバラモン僧正・菩提僊那を嚆矢とすると言ってよいでしょう。菩提僊那はヒマラヤを越えて入唐し、中国五台山に滞在していましたが、日本で本格的に仏教をひろめるべく授律伝戒の僧を求める聖武天皇の招きにより、第9次遣唐使一行と共に渡日することとなり、736年太宰府に到着しました。彼は704年生まれと伝えられていますので、当時32才の青年僧侶であったわけです。菩提僊那は弟子のヴェトナム人僧侶・仏哲等とともに日本で仏典を伝授するとともに、梵語を伝え、また、舞楽、伎楽などインドを始めとするシルクロードの文物を伝えました。但し、菩提僊那の名前を歴史に刻んだのは、752年、聖武天皇の命により東大寺大仏開眼供養の導師を勤めたことです。
         こうした功績から菩提僊那は、聖武天皇、行基、良弁とともに東大寺「四聖」としてその功を称えられている。四聖のうち残る3人については様々な画像が残されているが、菩提僊那については、後世、居所としていた大安寺の焼失とともに多くの画像が失われ、その姿を今に留めるものは「四聖御影」(ししょうのみえ)、「先徳図像」の二つのみとなっています。そこで21世紀に入ってから、菩提僊那の木造を製作し、その威徳を末代に永く留めようとの動きが出てきました。
         東大寺では、50年毎に大仏開眼法要の式典を続けてきていますが、2002年の開眼1250年法要の機会に菩提僊那像を製作することになりました。製作を担当した東京芸大の上原三千代さんは、「四聖御影」を参考に、「聖武天皇の後ろ盾になって、けっして前にはでない、万人の心を受け入れる器を持ちながら、同時に国家プロジェクトのプロデューサーであるしたたかさをも兼ね備えた人物」をイメージして製作したと手記に残しています。菩提僊那は、紫髯緑眼で喜怒を顔に表さなかったと伝えられています。また、「四聖御影」では大きな耳輪をつけて描かれています。私も、2005年10月に東大寺を訪問にした機会に本堂に安置されている菩提僊那像を拝見する機会を得ましたが、たしかに日本人風に作られてはいますが、異相で眼も緑色に彩色されていました。
         話が長くなりましたが、皆様方には、8世紀半ばに遠くはるばるこのインドからヒマラヤを越え、流砂を越え、そして最後には海を越えて来日し、仏教とともにインドの様々な文化を伝え、かつ大仏開眼という当時の最大の国家事業のプロデューサーを果たしたインド僧がいたこと、そして、それから1250年もたった21世紀に入っても、日本人はそのインド僧の威徳を決して忘れず、残された僅かな図画を基に木造を製作し、法要をしている事実を知って頂きたいと存じます。なお、菩提僊那は、760年、57才で崩じ、奈良・霊山寺にはその墓と言われる石塔が残っています。

東大寺大仏開眼供養と舞楽、伎楽
         菩提僊那が導師を勤めた大仏開眼供養の際には、舞楽、伎楽が催されたとの記録が残されています。菩提僊那のヴェトナム人弟子・仏哲が舞楽を舞っています。シルクロードの芸術・舞楽にはインド文化の影響も色濃く見られ、例えば、宮中舞楽で盛んに催された度羅楽の一つ婆理舞(ヴァーリ舞)は、ヒンドゥー教の聖典ラーマーヤナに出てくる猿王ヴァーリとその弟スグーリヴとのキシュキンダーの森における大格闘の場面を表現したものです。日本では天皇制が連綿と続き、宮中伝統がいわばタイムカプセルとなって、12世紀以上も昔に日本に到達したインド説話が舞楽として今に伝わっているわけです。
         大仏開眼供養においては伎楽も上演され満場の笑いを誘ったと記録されています。伎楽はコミカルな仮面劇で当時は東大寺や南都諸寺で盛んに催されたとのことです。鎌倉時代から段々廃れ、獅子舞だけが残ってほぼ消滅してしまいましたが、1980年の大仏殿昭和大修理法要の際に約1000年振りに再現されました。2002年の開眼1250年法要の際にも、天理大学伎楽部が中心となって上演されました。東大寺所蔵の伎楽面のなかには、「バラモン」や「カルラ」(ガルーダ)の面が残っており、ここにも奈良、平安時代にインド文化がはるばる日本にまで伝播していた証拠となっています。
         舞楽、伎楽とともに楽器もインドから伝わってきました。例えば琵琶です。インドのヴィーナ(Vina)で、サラスヴァティー(弁財天)が手にする楽器として知られています。更にはこのヴィーナは、その形状から日本最大の湖である琵琶湖に転じています。滋賀県出身の人は、インドではVina Lakeから来たと自己紹介すれば、名前を覚えて貰いやすいかもしれません。
         この他に、日本の古典芸術に取り入れられたインド説話として能の「一角仙人」、歌舞伎の「鳴神」があります。インド、中国、日本の3部に分けて説話を編修した文学作品として12世紀に作られた今昔物語がありますが、そのインド編で聖典マハーバーラタの中の説話を紹介しています。これはアンガ国が日照り続きで困っていた際、美女の誘惑により森の仙人がアンガ国に誘い出され、国中に雨を降らせるという内容です。これが、能、歌舞伎では、一角仙人ないし鳴神上人が、龍神を滝壺に封じ込め、その結果日照り続きとなるも、美女の誘惑に負けて神通力を失い、龍神が封印を破り大雨になる、という話に転じます。現代の日本人が意識しないまま、実は数多くのインド説話が仏教説話として日本文化に根付いています。

サンスクリット語と「かな」
          サンスクリット語は、日本には、一方にはサンスクリット語それ自体が、梵語学ないしは「悉曇学」として学問の対象として伝わるとともに、他方で「かな」の形成への影響を通じて入ってきています。
         仏典を原典で学ぶ必要性から奈良、平安時代の僧侶は梵語を学習しました。法隆寺に伝わった「般若心経」は世界最古級のマイトレヤ・スートラ(多羅椰子の葉に梵語で書かれた経である貝多羅葉経)として知られています。梵語(サンスクリット語)は元来は口伝言語として表記文字がありませんでしたが、BC3世紀ころにはブラーフミー文字で表記され、また3世紀のグプタ朝時代には悉曇文字(シッターン文字)となり、そして10世紀ころにはデーヴァナーガリー文字へとつながり、現代のヒンディー語がこれを使用しています。従って、奈良、平安時代の日本には梵語は悉曇文字として伝わってきました。かくして、752年の大仏開眼供養の際には、仏哲が悉曇学を講じ、また、空海が806年、唐から帰朝した際には、唐僧・智広の撰する「悉曇字記」を持ち帰り、これが日本の悉曇学の根幹をなしました。今では、梵字は卒塔婆に使われているくらいですが、日印の交流が途絶えてからも、日本でサンスクリット語学習が一つの学問として脈々と命を長らえたのは日印間の文化的紐帯を考えるうえでまことに興味深いところです。
         他方で、サンスクリット語は「かな」の形成の上で決定的な影響を与えています。簡単に言えば、サンスクリット語が中国に入った段階でまず漢字で音写し、この音写した漢字の簡略形が「かな」になり、日本語版アルファベットが形成された次第です。この過程でサンスクリット語の母音系に従って「アイウエオ」の50音図が整理されました。日本人のヒンディー語学習が早く、またインド人の日本語の上達も早いと言われますが、こと表音文字としての「かな」に関する限り、もともとサンスクリット語を土台に形成しているのですから当然と言えば、当然です。 (梵字、漢字、かな~母音対照表)

祇園祭り
          京都の夏の風物詩、祇園祭りは東京・神田祭り、大阪・天神祭りとともに日本の3大祭りの一つで、毎年7月には祇園祭りを見るために全国から50万人もの人々が京都を訪れます。現代の日本では、この祇園祭りが実はヒンドゥー教の神様を祀る祭祀であることは殆ど意識されていません。「祇園」とは勿論、仏教説話に出てくる祇園精舎、ヒンディー語で「ジェータ・ヴァナ」をさします。現在のウッタル・プラデシュ州サヘートに所在したと考えられています。須達多長者が釈尊を招かんとコーサラ国舎衛城(シュラーヴァスティ、現在のマヘート)郊外に建てた僧院です。この祇園精舎の守護神が牛頭天王(ゴーシールシャ)で防疫の神として知られています。従って、祇園祭りは疫病退散を牛頭天王に祈る祭りです。そしてこの牛頭天王は中部インドにある西ガーツ山脈最南端のマラヤ山を神格化した神と言われています。
         こうして仏教を通じてヒンドゥーの神が日本にも伝わり、869年に疫病が京都を襲った時に、祇園精舎の守護神・牛頭天王に疫病退散を祈願し、66本の鉾を建てて市中を練り歩いたことが、祇園祭の起源と言われています。皆様方インド人は、9世紀以来、連綿と毎年7月、遠く中部インドのマラヤ山を神格化した牛頭天王に祈りを捧げるために京都の人々が町を挙げてお祭りをしていることが想像出来ますでしょうか。しかも、祇園祭りの特徴は全部で31基の山鉾・山車が行列することです。そしてこの山鉾のルーツはヒンドゥー教の夏祭りで繰り出される山車です。オリッサ州プーリーのジャガンナート神殿の山車祭りが有名ですが、祇園祭りでも基本的に同じ構造の車の付いた山車が街中を練り歩きます。

インド更紗と祇園祭り
          ところで皆様は、この祇園祭りの山鉾の装飾用幕として17世紀に日本に伝わったインド更紗の布が現在も大事に使われていることをご存じでしょうか。2005年10月、私は染織家・吉岡幸雄氏のご案内で京都にある祇園祭り、南観音山保存会を訪問しました。南観音山では17世紀に袋屋庄兵衛が寄進したインド更紗が大事に保存されており、それを拝見するためでした。祇園祭りの時以外に蔵出しするためには保存会幹事全員の了承がいるということで、保存会役員の方々が更紗を広げて待っていて下さいました。縦横3~4メーターの長方形の大きな布で、松と鶴を描いた日本的な図柄でした。実際に祇園祭りの山鉾練りに使用されているので日光で色あせていましたが、他の幕と重ねられて直射日光が当たらなかった部分の染色は今でも色鮮やかです。
          インド帰任後、05年12月、ニューデリーにある国立博物館でタピ・コレクションと称するスーラート在住の個人によるインド更紗コレクションの展示を見る機会がありました。13世紀から19世紀に至るまでの世界各地に輸出されたインド更紗の逸品が展示されていましたが、何とこの中に南観音山が保存する更紗と殆ど同じ柄の作品が含まれていました。パランポール(Palampore)と呼ばれるベッド・カヴァー用の更紗です。18世紀、南インド東海岸(コロマンデール海岸)地区で製作され、オランダに輸出されたものとのことでした。このコレクションの所有者プラフル・シャー氏によれば、17~18世紀ころオランダが、日本との交易のためとジャポニズムのはしりで欧州市場向けに、日本趣味の図柄をインドで発注した作品とのことでした。9世紀にヒンドゥーの神、牛頭天王への奉納で始まった祇園祭りの山鉾に使用するために、17世紀にオランダ商人を経てインド更紗が寄進され、現在に至るまで大事に保存されてきているという日印の長い文化的繋がりを是非皆様に知って頂きたいと思いご紹介しました。吉岡氏によれば、この他に、月鉾保存会にムガール帝国時代のラホールで生産された真っ赤な絨毯があり、同様に祇園祭りの装飾幕として今も使用されているとのことです。
         インドはIT大国と言われます。この表現は、ややもすればITソフトは良いけれども、製造業には向いていないとの含意が込められる場合があります。しかし私は、インド更紗で世界の製造業に君臨したインドは、再び世界の製造業大国に発展する実力を有していると信じております。ただ、18~19世紀の英国植民地政策によって徹底的に製造業を破壊された「失われた2世紀」の傷が余りにも大きく、独立後の社会主義政策下で閉鎖市場であったことと相俟って、世界の技術革新の波に立ち遅れたことは否みません。経済自由化政策の下で、これからインドは本来有している高い物作り能力を発揮してITのみならず製造業大国としても発展していくと考えます。インド更紗は、キャラコやモスリンと呼ばれる高品質の綿織物製造能力、芸術的な絵付け技術、世界最高峰の染色技術に支えられた総合作品で他の追随を許さなかった。特に17~18世紀の欧州ではインド更紗は熱狂的なブームを呼び、毛織物と皮革中心の欧州の衣文化を一新しました。インド洋貿易の覇者が17世紀のオランダから18世紀の英国へと大転換した背景には、欧州における需要の変化により、貿易の中心が胡椒から英国が支配するインドの綿織物に移ったことがあります。
         ローマ帝国の政治家プリニーが対インド洋貿易入超でローマの金貨が大量に流出することを嘆いて以来、18世紀後半の産業革命に至るまで、欧州・地中海世界の対インド洋貿易は一貫して大幅な入超でした。欧州が新大陸から持ち込んだ金、銀が大量にインドを中心とするインド洋世界に流れ込んだ次第です。インド更紗が大流行してから、欧州が産業革命によりインド製綿織物まがいの製品を作るまで実に100年以上がかかっています。川勝平太氏の言を借りれば、インド製造業水準の高さに代表される「東洋からの衝撃」が産業革命の遠因になったと言ってよいでしょう。
         そして、当時の世界最高品質のインド更紗がオランダを通じて日本にも輸入され、祇園祭りへの寄進だけではなく、徳川家を始め、細川、前田、伊達など当時の主要な大名が競って買い付け、今に至るまで家宝として保存されていることをご紹介しておきます。また、綿織物と絹織物の違いはありますが、インド更紗で示された染色技術が友禅染めなど日本の染色工芸の発展に大きな影響を与えました。

日本に定着したヒンドゥー神
          私が、東京の吉祥寺、即ち「ラクシュミー・タウン」から来たことは既に申し上げました。ヒンドゥー神は、一度、仏教のフィルターを通り、かつ中国名で日本に入って来ていますので日頃意識しませんが、実際の生活空間を見渡してみると基を辿ればヒンドゥーの神様だらけであることに驚かされます。映画「寅さん」シリーズで有名な帝釈天はインドラ神ですし、金比羅様は海の守護神クンビーラ神です。また、弁天様はサラスヴァティーという学問、技芸の女神です。京都、奈良の寺社巡りをすれば、どこもかしこもヒンドゥー神だらけです。
         日本旅行の機会があれば、是非、京都の三十三間堂を訪問されることをお勧めします。このお寺は1001体の千手観音で知られますが、最前列に風神、雷神と並び守護神28部衆が配置されていますが、実はこれが全てヒンドゥー神です。かつ、一体毎に英語でヒンドゥー神名が説明されていますので、一目瞭然です。他の寺院でも仏教守護神像は基を質せば全てヒンドゥー神と言ってよいのですが、多くの場合、ヒンドゥー神の記述がありませんので外国の旅行者には気が付きません。
        

むすび
          「世界一の」という意味で、日本では昔から「三国一の花婿、花嫁」との表現が使われてきました。昔の人々にとっては、インド、中国、日本の三国が即、世界であったわけです。もともとは、最澄が記した「内証仏法相承血脈譜」でこの表現を使用していますが、12世紀ころには定着していたようです。
         昔から天竺、即ちインドは日本人にとっては憧れの地でした。桓武天皇の孫、高岳親王は、何としても天竺にたどり着きたいとして、先ず唐に渡り、865年広州から海路天竺を目指しましたが、果たせず、羅越国(現在のシンガポール)で亡くなったと伝えられます。13世紀には、明恵上人が、天竺行きを計画し、結局果たせぬまま、樹上で禅定三昧の修行しましたが、高山寺には当時インド往復の日数と距離を計算した書が残っています。江戸時代には「天竺屋徳兵衛物語」という播磨の人、徳兵衛が天竺に2度に渡って行った見聞記が人気を博しましたが、天竺と考えていたのは実際にはタイであったようです。結局、日本人としてのインド訪問は、天正少年使節団一行が1582年に欧州へ向かう途中ゴアに立ち寄ったのが最初です。
         21世紀のアジアは日本とともにインド、中国の台頭で、再び「三国」の時代を迎えよ うとしています。木村尚三郎氏は、「新唐天竺時代」と称しています。実際、アジアの安定と繁栄は、このアジア3大国間の協力関係に掛かっていると言っても過言ではないでしょう。政治レベルでの交流も活発化し、日印は戦略的協力関係を強化しています。また、現在、日本ではインド・ブームと言ってよいほどインド市場への関心が高まっています。今後、日印関係は政治、経済の両面でさらに関係を深めて行くことは必然です。しかし、二国間関係は、政治、経済関係だけでは時としてもろさを露呈します。両国関係に長期的な視野をビルトインすることが重要であり、そのためには何と言っても文化交流、国民交流の堅固な基盤が必要です。日印関係が発展している今だからこそ、かえってお互いに腰を据えて長い日印の歴史的文化的紐帯への認識を深め、その基盤の上に立って将来に向けての揺るぎない友好関係を築いていくことが求められていると信ずる次第です。        

(了)

参考文献
         ・「インド再発見」前田行貴著、フジタ社
         ・「不思議の国インド」紅山雪夫著、トラベルジャーナル社
         ・「日本の色を染める」吉岡幸雄著、岩波新書
         ・「クロニック世界全史」講談社
         ・「大仏開眼1250年奉納諸作品図録」東大寺
         ・「インド巨大市場を読みとく」榊原英資著、東洋経済社
         ・「蓮華王寺三十三間堂」KK飛鳥園
         ・「Masters of the Close-Tapi Collection」Deepika Shah